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| 利礼航路とサハリン航路が行き交うフェリーの街稚内 |
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■フェリーは観光と地域経済を支える重要なインフラ
森繁久弥・加藤登紀子の「知床旅情」がヒット曲となり、それによって秘境ブームに火がついたのが1971(昭和46)年。その時すでに登別や洞爺湖、層雲峡、阿寒湖、摩周湖などの景勝地は人気がありましたが、北海道の秘境が新しい観光地として着目されはじめ、リュックを背負った"カニ族"と呼ばれる団塊の世代が、たくさん北海道を訪れるようになりました。さらに北海道観光に火をつけたのが、1972(昭和47)年に開催された札幌オリンピック冬季大会です。そしてその2年後の1974(昭和49)年、全国で27番目の国立公園として利尻礼文サロベツ国立公園が誕生し、離島観光の新しいブームを巻き起こしました。ちなみにダ・カーポの「宗谷岬」がヒットしたのは1976(昭和51)年のことです。
秀峰利尻富士、花の浮き島、ウニなどの海の幸、日本最北の旅情に誘われ宗谷地方を訪れる人々は今日も後を絶たず、その玄関口となる稚内も、多くの観光客で賑わっています。
稚内信用金庫の調査によると、平成16年度の稚内市の観光入込客数は、736,500人。稚内空港の乗降客総数251,778人。また、フェリー輸送状況では、稚内=利尻島間で300,391人、礼文島間では288,279人となり、稚内=両島では588,670人となっています。この数字を見ただけでも観光都市稚内におけるフェリー輸送の重要さがよく分かります。
フェリーは、稚内をはじめ宗谷管内の観光と地域経済を支える重要なインフラの一つです。当地方を観光目的で訪れる人々やビジネスマンらを安全に島へ運ぶと同時に、島民の生活の安定と向上にも大きく寄与しています。また、島へは生活物資を、島からは新鮮な魚介類などの海産物を輸送する「海の国道」とも言うべき大動脈として、今後も稚内のメインの交通として大きな期待を担っていくことでしょう。
なお、現在のこの利礼航路は、稚内、利尻、礼文の各町村の嘆願等により1934(昭和9)年に就航し、戦中・戦後を経て著しい躍進を遂げてきましたが、その間の東日本海フェリー株式会社の企業努力も見逃せません。
■半世紀を経て甦った稚泊航路物語
東京駅から1,600キロ、鹿児島駅からは3,000キロ以上も離れた日本最北端の稚内駅。ホームの先でレールが途切れているのを目の当たりにすると、やはり最果ての哀愁を感じずにはいられません。
終着駅という響きには、一抹の寂しさが伴いますが、かつては、夢と宝の島"樺太"に向かう再出発の駅として異様なまでの活気を見せていました。そして、もうすっかり街の記憶からも忘れられようとしていますが、この稚内駅よりもう少し北に向かった現在の稚内北防波堤ドームの場所に「稚内桟橋駅」があったのです。1923(大正12)年から終戦を迎えるまで、ここから大泊(サハリン州コルサコフ)へ向かう鉄道(国鉄)連絡船が出ていました。いわゆる今は無き「稚泊航路」です。本州各地から鉄道を乗り継ぎ、青函連絡船で津軽海峡を越えてやって来た人々は、稚内で再び鉄道連絡船「稚泊航路」に乗り換えて、コルサコフ、あるいはユジノサハリンスクへと新天地へ渡っていったのです。
稚泊航路で稚内〜大泊を往来した乗客の総数は284万人にも上るそうですが、異色なところでは宮沢賢治が、妹を失い「永訣の朝」を詠んだ翌年3(大正12)年8月に、心の傷を癒すように、運航をはじめたばかりの稚泊航路に乗り込み、樺太の旅に出た記録が残っています。その時に詠んだ詩が
はだれに暗く緑する 宗谷岬のたヽたずみと
北はま蒼にうち眠る サガレン島の東尾や
賢治の渡樺目的はさておき、当時は無尽蔵と思われた森林資源、石炭などのエネルギー資源(現在で言うならサハリンプロジェクトの石油に相当するでしょうか)、そしてニシンなどの豊富な水産資源が眠る新天地樺太は、その後日本人の開発によってピーク時には人口40万人を数えるまでに大きく発展していきました。しかし、サハリンが日本の領土でなくなり、やがて連絡船は途絶えることに。1945(昭和20)年の終戦の夏には、樺太から稚内への引揚者は7万人を数えたと言われていますが、8月24日午前4時稚内入港の宗谷丸を最後に稚泊航路は終焉を迎えました。
また、米ソ冷戦時代のコルサコフは、軍港として機密が保たれたままで、二度と日本人が足を踏み入れることはないだろうと思われていましたが、ソ連邦崩壊後のペレストロイカにより政治体制も大きく変わり、港も解放されるようになりました。
一方、過去の戦争の傷跡を乗り越え、稚内市もベネリスク、コルサコフ、その後ユジノサハリンスクと友好都市交流を進め、ついに、1995(平成7)年、稚泊航路が半世紀ぶりに帰ってきました。2年後の1999(平成11)年からは東日本海フェリー株式会社がサハリン航路として引き継ぎ、年間60往復にもおよぶ往来を続け、昨今では、サハリンプロジェクトに関連した建設重機、車両等の輸送にも大きく貢献しはじめました。
さらに最近は、サハリンツアーを組む旅行代理店各社も登場し、コルサコフ=ノグリキを縦走する観光列車「ユーラシア号」の鉄道の旅や、川や海で豪快な釣りを楽しむ企画が人気を博しているようです。
半世紀を経て甦った稚泊航路(サハリン航路)。フェリー交通の国際線を持った稚内は、日本の最北としての位置づけを超えて、世界に開かれたトランスポート機能を有する国際観光都市としての魅力的な顔づくりをはじめる時期を迎えています。
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