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〜 雄武町 〜
Vol.71/平成20年2月発行
91歳とは思えない歌声。「北海道の東海林太郎」は、今年も全国を慰問します。
石澤 長吉さん
<石澤水産(株)取締役会長>
石澤 長吉さん
(雄武町沢木在住)
【プロフィール】
 大正6(1917)年1月12日、山形県山形市の三日町で6人兄妹の長男として生まれました。家は小作人の貧しい農家でした。
 大正12(1923)年には山形市尋常第二小学校に入学。相撲の盛んな学校で、中庭には本格的な土俵が。関取には化粧まわし、行事や呼び出しの衣装なども立派だったとか。

 石澤さんは4年生の時に『呼び出し』の指名を受け、以来5年間に渡って「トザイ、トーザーイ」と声高らかに名呼び出しを演じました。のちに歌うようになったのも、この呼び出しの影響があったと思われます。また、元来商いが好きでした。
 小学校3年生で母親の反対を押し切って納豆売りを。4年生の冬には唐辛子売りをはじめることに。「ナンバンコー、トーガラシー」と寒風の中ふれ歩きました。おそらくその頃にはもう、立派な声帯が出来上がっていたのでしょう。
■昭和流行歌とともにあった十代
 もはや家庭の中にレコード・プレイヤーがあることさえ珍しい時代になってしまいました。すっかりCDやDVDにその座を奪われてしまいましたが、1920年代に登場した円盤型のSPレコードと蓄音機ほど、日本の音楽史を塗り変えたものは他に見当りません。一方、国内でラジオ放送が始まったのも1920年代。レコードで評判となった曲はラジオ放送でも盛んに流され、相乗的な効果もあって『流行歌』というヒット曲を生み出すことになります。
 以来、流行歌は庶民から圧倒的な支持を受け「唄は世に連れ、世は唄に連れ」という諺の示す通り、歌はその時代の世相を映す鏡として暮らしの中に入り込み、私たちはいつでも「その歌を聞けば、流行っていたその時代を思い出す」ようになりました。
 日本の流行歌の夜明けは、昭和初期にヒットした「東京行進曲」「酒は涙か溜息か」によってはじまったという説がありますが、昭和8(1933)年にデビューした東海林太郎によってその黄金時代が築かれます。昭和9(1934)年の作品『赤城の子守唄』『国境の町』は空前の大ヒットを記録し、燕尾服で正装し直立不動で歌う姿は、激動の昭和を象徴する記憶の一つといえるでしょう。
 そんな東海林太郎の歌を当時リアルタイムにラジオで聞き、楽器店の蓄音機の前で繰り返し何度も耳を傾け、新譜が出れば譜面を買い求め、自身もなりきって歌っていた少年がいました。それが十代の若き日の石澤長吉さんです。東海林太郎に憧れ、傾倒し、師と仰いできた、その御年91歳の石澤さんが、いま「北海道の東海林太郎」として歌のステージに立っています。会場となるのは老人福祉施設。師と同じように直立不動のスタイルで、衰えを知らぬ澄んだバリトンの歌声が、今年も全国各地に響き渡ります。時には曲や師の紹介を交えて。



■東海林太郎の忘れられない思い出


慰問先の滋賀県甲賀市甲南町にて。
握手を求められることもしばしば。
中富良野町にて。
思い出に残る素晴らしいショーを展開。
 東海林太郎が他界した日、昭和47(1972)年10月4日は、石澤家の長男秀元さん(石澤水産(株)代表取締役社長)の結婚式の前日であったことから、生涯忘れることができない日となりました。
 石澤さん宅にはとっておきの「私の宝物」といわれる東海林太郎筆による『赤城の子守唄』の色紙が飾られています。
 かつて昭和35(1960)年に一度だけ雄武町で東海林太郎の歌謡ショーが催されたことがあります。町内の吉川旅館に泊まっていることを知った石澤さんは、いてもたってもいられなくなり旅館の玄関へ。当然なのでしょうが、お会いすることはできませんでした。しかし後日、長年の先生のファンであること、尊敬してやまない気持ちを手紙にしたためたところ、思いがけなく『赤城の子守唄』の色紙が送られてきました。石澤さんは色紙のお礼に雄武産の自前の鮭のメフン(腎臓)と新巻を送ったところ、すぐに先生から達筆な返事をいただいたそうです。名前には「石沢長吉仁兄」とあり、仁兄の意味が分からず辞書を引いたところ「同輩を親しんで呼ぶ称(儒教では最も尊敬を込めて用いる呼称)」とあり、その言葉に恐縮し、ただただ心を打たれたといいます。
 手紙には「数年前北海道へ行った時、札幌グランドホテルで初めてメフンを食べましたが、それ以来食べたことがなく、珍品を頂き大変喜んでいます。軽井沢の山に住んでいるので魚屋もなく自転車で犬を連れて買出しに出歩いております。さすが北海道の本場の味」云々というようなことが書かれていたそうです。
 石澤さんの心には、いつまでも東海林太郎の歌の一つひとつに懐かしい思い出が秘められています。『赤城の子守唄』『山は夕焼』『母に捧ぐる唄』『麦と兵隊』『国境の町』などの名曲をボランティアで歌う時、聞く人も激動の昭和の記憶を鮮やかに蘇らせているのかも知れません。



自費出版でこれまで2冊の自叙伝を発行。
青春の思い出が詰まった額装。東海林太郎さんのブロマイド。
戦中に取り上げられた新聞記事のキリヌキ。
徐州放送局から謝礼をもらった時ののし袋。
山形富岡ジャズバンドの写真など。
石澤さんの宝物、東海林太郎さんからいただいた『赤城の子守唄』の色紙。
石澤さんのステージはこの曲をオープニングに使うことが多いとか。

■召集を乗り越えて沢木へ

 石澤さんが正式に人前ではじめて歌ったのは、昭和11(1936)年。19歳の時で、山形青年団の音楽祭でした。その頃山形放送局が開局し、歌謡曲試験放送選考会に合格し、友人のギター伴奏で歌う『旅寝の夢(歌/東海林太郎)』などが放送されました。召集されるまでは山形市富岡ジャズバンドで歌い、青春を謳歌しました。
 満州事変が勃発し戦火は次第に北支へと広がりはじめ、ついに昭和12(1937)年日華事変へと戦争は拡大していきました。徴兵検査で第二乙となった石澤さんのもとにも翌13(1938)年9月8日召集令状が届き、弘前の第八聯隊(れんたい)輜重隊(しちょうたい)へ入隊し、北支(徐州)へ従軍することに。
 戦地でも、歌の上手さから何かと重宝され、将校などの上官や戦友から、酒の席で必ずといっていいほど「歌の指名」がかかりました。また部隊の演芸会でも才能を発揮し朝日新聞、東日新聞山形版で「石澤君の美聲に部隊長も聞惚る」と写真入りで大きく報じられたことも。徐州放送局からは、生バンドで歌った謝礼として、軍の給金1ヵ月分に相当する謝礼を贈られたそうです。
 事無きを経て除隊後(上等兵/下士官適任者)の数年を山形で過ごしたあと、昭和17(1942)年に、現住所である沢木にいる伯父を頼りに来道。伯父の仕事である海産物商(仲買・加工・出荷)を手伝い、毛ガニ、鰊、帆立(貝柱)、鮭を取り扱いました。秋冬は農業も手伝い、9ヵ月間給料を1円も使わずに当時としてはものすごく大金だった千円を稼ぎました。その大金をしかと肌につけ、沢木から夜汽車に乗って故郷の山形へ。そのお金で家(小作人農家)の借金をすべて返したそうです。
 翌年1月には沢木への定住を決め再び来道。縁あって4月に沢木郵便局長の娘さんであった山崎マサヱさんと結婚します。しかし新婚生活も束の間、5ヵ月後の昭和18(1943)年9月に今度は徴用され、横浜富岡兵器(飛行機関係の工場)へ。 同工場で終戦を迎え、ラジオとアコーディオンを両手に抱えて沢木に帰ってきた石澤さんは、行商、漁場の帳場などを経て、やがて石澤水産を創業。以後、大きく業績を延ばし、沢木を代表する経済人の一人となります。また人望も厚く、数多くの公職に就き平成3(1991)年には、民生委員、保護司として39年間勤められた功績が讃えられ『勲五等瑞宝章』を叙勲するに至りました。


■ボランティア歌手石澤長吉の誕生
 ちょうど10年前の平成10(1998)年のこと。カラオケを楽しんでいた雄武のスナックで、たまたま居合わせた地元の福祉施設職員が「施設で歌ってくれませんか?」と石澤さんを誘いました。福祉を筆頭に多くの公職から身を退いていた石澤さんは、次に自分ができる奉仕活動の一つとして「私の歌が役立つのであれば」と歌のボランティアを開始しました。
 「同世代の人を励ましたい。生き甲斐をもって健康でいてほしい。」時には自分の年齢よりも若い人たちを前にして、今年も願いをこめて歌います。慰問活動は昨年末までに192回を記録。200回記念は、4月22日に雄武町で迎えます。

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